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"I am"ー尊厳ある社会の実現に向けてー

この世界とは何なのか、人間とは何なのか、自分とは何なのか。認識技術によって開かれる未来文明

被害者と加害者の境界線ーその線はどのように引かれるのであろうかー

 

 

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とある記事を読んで思い出した歌詞がある。

「子供らを被害者に、加害者にもせずに、この街で暮らすため、まず何をすべきだろう」

 

というミスターチルドレンの「タガタメ」という曲である。

当時の僕は中学生そこそこ。

その当時の少年なりにそ疑問を持った歌詞であった。

 

「被害者だけでなく、加害者?、加害者にしないってどういうことであろう。被害者になってしまうのはしょうがない。だから周りが守るしかない。でも加害者になるのは本人の責任であろう

 

しかし次第に考えは変わっていった。

「うーむ、たしかに加害者になってしまうのも周りの環境のせいかもしれない。加害者には加害者なりの事情がある。」

 

そしてさらに

「いまの社会は被害者はかわいそう、加害者は悪。としてしまう論理がある。しかしどうだろうか?加害者も、社会の被害者ではないのか?」と。

 

そんな考えに至って、僕はやるせなくなった

それをわかっていたとしても、僕はどちらを救う手立てもなかったのだ。

 

本人に「あなたは悪くないんだよ」と言って解決するものではない。

社会に「あの人たちは二人とも被害者なんだ」と訴えて変わるものでもない。

被害者に「彼も被害者なんだ」と言って、被害者の方の傷が癒えるわけでもない。

 

だから僕は見て見ぬ振りをするしかなかった。

だから僕はどんな状況においても、どちらの立場にも立つことができなくなっていた。

しかしどちらかに傾かなければ、ぼくの居場所は無くなっていく。

 

八方ふさがりとはこういうことだ。

僕は何も出来なくなった。

被害者と加害者、正解と不正解、イエスとノー・・・

 

僕にはこの言葉たちがとても滑稽に、そして憎くも思う。

この言葉たちがどれほど多くの問題を起こしているのだろうか、と。

その境界線はどこにあるのだろうか、と。

どのように引かれるのだろうか、ということを。

 

僕たちは今一度考えるべきであると思う。

「自分が被害者にならないために、どうしたらいいんだろうか」

ということではなく

「子供らを被害者に、加害者にもせずに、この街で暮らすため、まず何をすべきだろう」

ということを。

そしてさらに

被害者とは、加害者とは、誰のことを指しているのか。その境界線はどのにあるのか」ということを。

 

"いまの体の範囲だけの自分"を守るためだけではなく、"時間軸と空間軸を広げた自分"を守るために。

 

そんなことを感じさせてもらった記事であった。