20代からの"而立(じりつ)"のすゝめ

様々な人に出会い、様々な本を読み、実践してきたことを元に、色々な角度で表現いていこうと思います。

マハトマ・ガンジーとNoh Jesuー前編:偉大な魂を持った人類歴史に名を刻む二人の人物ー

 

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「非暴力・非服従」

この言葉を聞いてまず初めに思い浮かぶ人物とはどんな人物でしょうか?

 

ほぼ多くの人が思い浮かべるのは、インド独立の父である"マハトマ・ガンジー"ではないでしょうか?では彼はどんな人生を歩んできたのでしょうか?

 

まずはその"マハトマ・ガンジー"の生涯をご紹介させていただき、次回の記事でガンジーがどれほど偉大な人物であったのか、ガンジーは何を目指していたのか、そのガンジーの遺志を引き継いで私たちが今の時代にどのような方向性に向かっていけばいいのか、ということを"Noh Jesu"との比較によって見出していこうと思います。

  

ガンジーの偉大さー彼の影響力ー

 

ガンジーの存在を抜きにして、多くの革命家たちの存在を語ることはできません。キング牧師チャップリンネルソン・マンデラボブ・マーリージョン・レノン・・・みなガンジーの思想に大きな影響を受けています。ガンジーは暴力を用いずに政治や社会に大きな影響を与えることをできると証明した人物なのです。

彼の「非暴力・非服従」闘争という人類歴史においても革新的な手法は、いかにして生み出されたのでしょうか?

 

 ガンジーの生い立ち〜インドでの失敗

 

イギリス領インド帝国で生まれ、実は成績があまり良くなく、素行も悪かったようです。13歳で結婚し、18歳でロンドンに渡り法廷弁護士になるために勉強し始めました。

 

 その後インドで弁護士事務所を開業し、早速法廷での弁護依頼を受けますが、ガンジーは性格が優しすぎて他人を傷つけることの出来ず、元々あがり症であることも重なり、法廷での仕事が十分に全うできませんでした。そして彼は依頼者に代わりの弁護士を紹介し、その場から立ち去ってしまいました。それから2年ほど仕事が無く、結局事務所を閉鎖してしまいました。

 

人生の転機、南アフリカへー人種差別との出会いー

 

そんな時にイギリス領南アフリカ連邦に住むインド人実業家から、顧問弁護士としての雇用の話が舞い込む。法廷に立つ仕事ではないことや、地元から離れられることもあり、彼は喜んでその申し出を受けました。

 

同じイギリス領でありながら、インドと南アフリカには大きな違いがありました。それは、南アフリカは自治が認められており、イギリスから移住してきた白人たちが徳利の法律の下で政治を行っていたのです。

 

その法律というのが、1980年代まで続くことになる人種差別に関するものが含まれていたのです。その差別の対象は黒人・黄色人種を含む全ての有色人種に向けられたものであったので、ガンジーのように弁護士の資格をもっているような人物でさえ差別の対象となりました。

 

そして列車の一等車への乗車を拒否さえ荷物もろとも放り出される、白人が宿泊するホテルに泊まれないなどの強烈な人種差別を経験し、後のガンジーの行動の原動力ともなる経験をしたのです。

 

その後、イギリス領南アフリカレンポの人種差別政策に反対し、インド系移民の法的権利を擁護する活動に従事するようになります。 

 

南アフリカでのガンジーの活動ー非暴力・非服従の胎動ー

 

その後彼は一気に活動を活発にし、自らの思想を具現化する場として農場を作り、そこで採れたもので生活しながら、ヒンズー教の教えに基づくコミュニティを築いていきます。さらに「インド評論」という機関紙を発行したりもしました。

 

1879年に南アフリカにおける先住民による反乱が起きた際には、インド人の部隊を組織し、戦闘活動ではなく救援活動を行い、政府への協力を行いました。この部隊はその後の「ボーア戦争」でも活躍し、その指導者としてガンジーの名は南アフリカ政府にも知られるようになりましたが、彼の活動が政府に認めれられることはありませんでした。

 

それからガンジーは炭鉱労働者たちに呼びかけをし、ストライキを実施するようになり、後の彼の代名詞ともなる「非暴力・非服従」が実行に移されるようになります。

 

そして1913年に行われたトランスパールの行進を指揮したガンジーは、逮捕されますが、初の勝利を収めることができ、暴力を一切用いないこの運動に対し、海外からも多くの賛辞を得て、彼の名は一躍有名になりました。

 

故郷へーインド独立に向けた非暴力・非服従の闘争ー

 

本来は南アフリカへは1年だけの契約でしたが、結果的に21年という長期間を南アフリカで過ごしたガンジーは1915年に故郷インドへ戻り、一躍ヒーローとして迎えられました。

そしてインドでは、不可触民の差別撤廃活動、農園主の搾取に苦しむ小作農たちの解放運動、都市部の工場で働く労働者たちの賃金闘争や労働条件闘争のためのストライキなどをしていました。

 

 1914年に第一次世界大戦が起こると、英はインドへ将来の自治を約束し、植民地統治下のインド人への協力を求めたため、ガンジーはその約束を信じ救援部隊を率いて参加しました。

 

しかし蓋を開けてみれば、イギリス政府はインド人を裁判なしで投獄できる特別法を設定(ローラット法)。さらにはそのローラット法への抗議のために集まった非武装の市民に対してインド軍部隊が無差別射殺をし数百名を虐殺した「アムットサル事件」が発生しました。ここからガンジーはイギリスへの不信感を明確に抱くようになります。

 

これらに対してガンジーはインド全土でのストライキを呼びかけ、結果的にその呼びかけにより3億人もの労働者が参加する大規模なゼネストに発展していきました。この動きによって独立運動は成功に向かわれるかと思いましたが、イギリスの圧政に耐えきれなくなった一部の民衆が暴徒化し、警察官を殺害してしまう事件が起きました。

 

この事件によってガンジーは自ら盛り上げた独立運動を停止してしまいました。結果的にイギリスはさらに強い姿勢で彼らに圧力をかけるようになりました。ここにもカンジーの強い信念が現れていますね。

 

不買運動・塩の行進という偉業

 

そんな中で1919年に政府の政策に抗議する1500人以上の無抵抗の市民が銃殺されるという大惨事が起きました。そんな状況でガンジーが新たな手段を繰り出します。それが「イギリス製品の不買運動」でした。

 

ガンジー自身、西洋式の衣類をすべて捨て、既にインドでは過去のものとなりつつあった手動式の糸紡ぎ道具チャルカを使って、インド古来の製法による衣類を作るようになります。自らの手で作り出したものだけで、質素な生活をすることは時代に逆行するものでしたが、彼はそうしたインド式の生き方が誇り高いものであると、人々に理解させたのです。(インドの国旗の真ん中には、未だにチャルカが描かれています)

 

こうした一連の運動のために、ガンディーはたびたび投獄されたが、1930年に独立への動きが進展が見えなかったため、ガンジーは再び新しい運動を始めます。それが有名な「塩の行進」です。

 

当時インドでは塩を作ることが禁止されていました。そのため国民はイギリスから輸入された高価な塩を買わなければなりませんでした。この不当な取り決めに抗議するためにガンジーは自らの手で塩を作ることで抗議しようと考えました。それもただ塩を作るだけではなく、海までの道のり約350kmを自らの足で歩きながらです。

 

この抗議活動は約一ヶ月に及び、次々と人々が行進に加わりました。丁度この頃ニュース映像が世界で放映されるようになっていたので、ガンジーの行動は世界中の注目を集め、多くの声援をもらうようになりました。

 

しかし結果的にガンジーはイギリス政府に逮捕されました。それでもインド各地で抗議活動が活発化し、多くの人が刑務所へ送られますが、逮捕者が多すぎて刑務所に収まりきらなくなってしまいました。

 

これら一連の動きによって、イギリス政府は世界中からの非難を浴び、結果的に条件付きではありましたが、海岸部の住民のみ塩を作る許可を与えることになりました。

 

ガンジーの信念ー完全独立以外の道はないー

 

その後、イギリスにてインドに自治権を与えるか否かの会議が開かれました。しかしガンジー不在のために1度目の会議はなくなり、1931年に2度目の会議が開かれ、ガンジーは会議出席のために釈放されました。

 

そしてその会議でのガンジーは予想を反し、「イギリスが将来的に必ずインドに自治権を与える」という申し出を拒否し、「現状の領土のままでの完全独立以外ありえない」と発言したのです。

 

これは当時の価値観で言えばとても無謀な発言で、当時の世界情勢は世界恐慌のためにとても悪い状態で、その中で勢いを失っていたイギリスにとって、広大な植民地であるインドを失うことは大きな損出となり、ありえないことだったのです。

 

そのためガンジーは再び逮捕され、独立運動をしていたグループは弾圧の対象となってしまいました。その後ガンジー出獄しますが、65歳という年齢のこともあり政治の世界からの引退を表明し、ジャワハラル・ネルー(後の初代首相)が彼の後を継ぎ、独立運動を指揮して行くことになりました。

 

 ガンジーの苦難ーインド分断の道へ、終わりなき闘争ー

 

その後1939年に第二次世界大戦が始まり、日本軍が東南アジアに進出し、イギリス軍はビルマを守りきれず、インドにも日本軍が侵攻しようと準備を始めました。その状況で、インドの独立運動が活発化すればもう抑えることができないと判断したイギリスは、インドに対して戦後の自治権を与える提案をします。しかしインドはそれを拒否しあくまでも独立を主張し続けました。

 

そして第二次世界大戦によって国力を消耗したイギリスは、もうインドの独立運動を抑え込むことはできなくなっており、ついにイギリスはインドの独立に向けた案を発表します。しかしその案の中身はヒンズー教の国「インド」とイスラム教の国「パキスタン」二つに別れることなっていました。

 

ガンジーはこの案に強く反対。あくまでもインドは一つの国であることを主張しますが、現実的にイスラム系の人々は分離独立を主張しており、その流れを止めることはできませんでした。

 

 こうして1947年8月15日、インドは二つの国に分かれて独立することとなりました。しかし完全に二つの宗派の人々が離れて居住することはできなかったため、多くのトラブルが引き起こされ、それぞれの国で少数派の人が弾圧されるようになっていきます。

 

この状況を打開するために、1948年、政治の世界を引退していたガンジーでしたが再び大衆の前に現れ、対立する二つの宗教グループの和解を求めて断食を行います。当時78歳であったガンジーにとってこの行動は命がけであり、その姿をみて両宗教の代表者は一段階和解をすることになりました。しかしこの行動も根本的な解決にはなっておらず、ガンジーヒンドゥー原理主義者からはイスラム教対して譲歩しすぎるとして敵対視された。

 

そして結果的に二つの宗派間の終わりなき闘争は終わることがなく、お互いが核兵器を持つ関係性へと発展していってしまいました。

 

ガンジー暗殺ー最後の時ー

 

そして1948年1月30日、日課となっていた寺院でのお祈りに向かう途中、ガンジーニューデリーにてヒンドゥー原理主義集団民族義勇団の一人によって暗殺されました。

3発の弾丸が打ち込まれた時、自らの額に手を当て(イスラム教で「あなたを許す」の意味)、「おぉ、神よ」とつぶやいてこの世を去ったという。

そして国葬が行われ、遺灰はヤムナー川とガンジス川南アフリカの海に巻かれた。

 

 

 

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