20代からの"而立(じりつ)"のすゝめ

様々な人に出会い、様々な本を読み、実践してきたことを元に、色々な角度で表現いていこうと思います。

管理人のプロフィールー少し長いですが、お付き合いいただければ幸いですー

 ※所要時間:12分〜18分(約7200字)

 今回はブログ管理人のプロフィールをご紹介したいと思います。

 

生まれと育ちーとにかく負けず嫌いな少年ー

 

生まれは茨城県取手市、育ちは茨城県守谷市です。2つ上に姉がおりまして、子供好きの母と、野球好きの父の元に生まれます。

 

この寛容な両親の元ですくすくと育ちまして、性格は根っからの「負けず嫌い」で育ちました。幼少期から両親や幼稚園の先生に対しても「なぜお前の指図を聞かねばならないのだ」と内心思いながら日々生活していました。

 

未だに両親が言うには「あの頃はあなたが将来人殺しにならないように必死に向き合った」とのことでした。恐らく相当な暴れん坊だったのだと思います。そうはいっても僕は両親、特に母親が大好きでした。姉とも仲良しで、いつも姉の後ろを付いて回っていたそうです。

 

暴れん坊が一転、なぜか良い子に豹変ー祖父母と両親の間で傷つく少年ー

 

しかしそんな「暴れん坊」も小学校に上がるとおとなしくなります。このキッカケは少し込み入った話になりますが、私の家は両親と祖父母の仲がよくありませんでした。あまり表立った喧嘩はしないのですが(両親が見せないようにしてたそうです)、子供なりにその緊張感は感じていました。

 

のちに母親がよく言っていたのですが「あなたは本当に敏感な子だった」というように、子供なりにその関係性を察し「なんで僕のおじいちゃんとおばあちゃんは普通に家と違うの?」と聞かれてひどく困ったそうです。

 

そんな両親と祖父母の関係があっても、そんなことはお構いないしに「暴れん坊」の少年は暴れます。しかしどうでしょう?その関係がある中で、その少年が暴れると、祖父母はえらく機嫌を損ねます。ちなみに両親曰く「多分おばあちゃんはあなたを自分の孫だと見てなかったと思う」とのことでした。その周辺の背景は省略しますが、まあとりあえずそんな関係性で、とても一般的な祖父母と孫の関係ではなかったようです。

 

そして祖父母が機嫌を損ねるとどうするのか。もちろん私に直接叱ることはありますが、その大半が僕の「両親」へと向かうのです。どんな言葉を投げていたのかはわかりませんが、恐らく「あなたがしっかり躾けないから」「ちゃんと育てなさい」などという言葉であったのでしょう。僕はその姿を影から見守るしかありませんでした。

 

このことに「暴れん坊」の少年はひどく心を痛め、「自分が騒ぐと大好きな両親に被害が及ぶんだ」と思ってしまします。そのことを何度か繰り返していくうちに「騒ぐこと自体がダメなんだ」となってしまったようです。それが恐らく、幼稚園の年長の頃でしょう。そのことがあって以来「暴れん坊」であった少年は、「暴れる」ことをやめてしまします。

 

良い子になった少年のエネルギーの矛先とは

 

それからというもの両親が驚くほどの「良い子」に転換したそうです。それがちょうど小学校に上がるくらいだと思います。ただし、ただでさえ「暴れん坊」であった少年は、エネルギーが有り余ってしまいました。では、そのエネルギーをどこに使うことになるのでしょうか?

 

それが「勉強」と「スポーツ」です。

 

育ちの上からも、そこまで賢い子供ではありませんでしたが、そのエネルギーを一点に集中させれば以外と出来ちゃうもんで、当時は公文式に通っていましたが、みるみるうちに成績は伸び、恐らく同学年ではトップクラスで、小学校5年のときには中学3年の数学を勉強していました。

 

スポーツにおいては、父の影響もあり野球に専念しますが、これまたなかなか地域では上手な方であったと思います。ただし体が小さかったことと、飽き性であったので、そこまで努力もせず、いわゆるセンスだけでやっていたため、そこまで能力が伸びることはありませんでした。

 

常に心の中で自分に問い続けてきたことーあなたの好きな人生を歩みなさいー

 

そのように「勉強」と「スポーツ」を中心に高校まで頑張るのですが、僕の心の中に常にこんな問いがありました。

 

「自分が心から熱中できるものを見つけたい」と。

 

勉強にしても、スポーツにしても、僕からすれば「学校や先生が要求してくるからやっている」に過ぎませんでした。幸い僕の両親の口癖は「あなたの人生なんだから、あなたの好きなように生きなさい」というもので、常に「高校に進学しなくても良いし、勉強だってしなくても良い」という風に言われ続けてきました。

 

そのような環境であったからか、僕の中には常に「自分はどのような人生を歩むべきか」という問いがありました。

 

そんな中、大学へ進学します。当時"IPS細胞"が少し話題になったこともあり、僕は生物系の大学へ行って、研究者になり、世に役立つ研究をすることを志ます。まあ、エネルギーは有り余っていましたから、高校3年生の夏に野球部を引退してから、猛勉強を行い、生物だけでいえば偏差値が80ほどにまでなりました。そんな大きな期待とエネルギーをかけて、大学へ入学しました。

 

大きな期待を持って大学へ入学ー大きな落胆と新たな楽しみー

 

そしてそんな期待と裏腹に、大学の授業のつまらなさに落胆します。「こんなことを4年も続けられるだろうか・・・」と。入学当初の授業はほとんど私が高校で学んだものばかりで、授業に出る意味を失ってしまいました。そこで次に私がそのエネルギーをどこに注ぐのかと言うと「大学の友人との交流」です。

 

当時の私は小学校から高校まで勉強と野球漬けの人生でしたから、「友人との交流」というのは単なる人生の付属品でしかありませんでした。しかし大学で経験した「友人との交流」は勉強やスポーツよりも何倍も楽しく、刺激的なものでした。

 

あまり大きな大学ではありませんでしたから、その日に仲良くなった友人が、次の日には別の友人を紹介してくれ、さらにその次の日にはその友人がそのまた友人を紹介してくれる。そして毎晩のように友人宅に泊まり、語り、遊ぶ、そして翌朝は大学の授業に遅れて参加する・・・・そんな毎日でした。

 

そんなことを一年もしていると、大学で知らない人はほぼ居なくなってきます(もちろんこれは当時の僕の主観です)。そしていつの間にか大学で一番大きな団体(最大で300〜400人くらい在籍してたかなぁ)の責任者を任されるようになっていました。

 

しかしエネルギーの有り余った「元・暴れん坊」はそれだけでは満足しきれず、さらに大きな「自分のエネルギーの投入先」を求めます。

 

人生の大きな転機ーある飲食店との出会いによる大きな転換ー

 

その一つが僕の人生に大きな影響を与えた「アルバイト」でした。

 

当時の僕はカラオケ屋で夜勤のアルバイトや、多少の塾講師などはしたことがありましたが、本格的に仕事をしたことはありませんでした。ですので僕からしたら初めての仕事でもあり、また幸運にもその初めての仕事先がめちゃくちゃ最高の場所だったのです。

 

その仕事先は個人経営の飲食店で、そのお店は地元で長く続く飲食店でして、代々その家系の家長が店を切り盛りし、その人独自の色でお店を経営していました。

 

当時は、丁度その飲食店のオーナーが店をリニューアルオープンし、その人の理念の元に新しくお店をスタートさせようとしていた時期でした。私はその時に丁度、採用していただくことになったのです。

 

その店で受け取った人生の大事な価値観ー仕事とはー

 

この時について書いてしまうとえらい長くなってしまうので、省略しますが、僕がこのお店で働いて一番影響を受けたことは「仕事とは楽しいものであり、自分の志をそのまま反映したものなんだ」ということでした。

 

私の両親は父が公務員で、母は介護職についていましたので、俗に言う一般的な家庭でして、当時の私にとって仕事とは、「お金を稼ぐためのもの」くらいの認識しかありませんでした。しかしそのお店で働かせてもらうことにより僕の仕事観は一変しました。

 

オーナーが重んじてくれた若造の人生と自主性

 

なによりオーナーをはじめその他の方々がとても人間的に素晴らしい方々で、何より大事にしてくれたことは「私の人生」であり「私の自主性」でした。「お前がお客様にとっていいと思うことをしたならそれでいい」「何よりお前が仕事を楽しんでほしい」・・・そんな言葉ばかりが飛び交う職場でした。

 

こんな何も知らないど素人の若造に、ここまでの姿勢を取れる大人がいることに当時の僕は相当な感動でした。またそのことを通して俗に言う「大学や社会が要求する就職だけが就職でない」ということも知ります。

 

とにかくここでの出逢いは僕の人生に大きな影響を与えます。そのような価値観をもらった僕は、より一層以前にも増して「自分が心から熱中できるものを見つけたい」「自分はどのような人生を歩むべきか」と考え出します。そしてそ私はより広い世界を目指します。

 

より大きな世界を目指してー好奇心旺盛な少年ー

 

当時の私はとにかく、やったことのない事・知らない世界を知りたい!、という思いであふれていました。こうやってみるととても好奇心の強い人間でしたね。とにかく心の奥底にある「エネルギーの使い先」を見つけていました。

 

そしてあるきっかけで知った「発展途上国に小学校を建てる」という学生団体に加入し、そこから海外というものを知り、さらには多くの他大学の学生と知り合い、多くの刺激を受けます。そこからは大学3年生にも入り、今まで捜し求めてきた「自分の人生」を大きく決める「就職活動」というものを始めます。

 

少年は就職活動へ突入ーとにかくやってみる!ー

 

私の性分からいって「やってみないと分からない」というものがありますから、とりあえず興味のあるベンチャー企業で夏休みに一ヶ月ほどインターンをさせてもらいました。しかし正直そこでは事務作業レベルしかできず、「もしかして会社で働くとはつまらないものなのか」と思ったりもしました。

 

そして丁度僕私就活をした時期はいろいろな企業が「SNS就活」に乗り出した時期で、感度のいい学生や企業はだいたいSNSを中心に活動していました。それをいいことに私はとにかく行けるだけ多くの企業の話を聞き、そこで出会った学生、社会人の方に多くの話を聞きました。

 

その時も僕の心の中にあったのは「自分はどのような道であればこのエネルギーを発揮しきれるだろうか」ということでした。昨日よりも今日、今日よりも明日、明日よりも明後日が、燃えたぎるような人生を望んでいましたから、その道を探す就職活動という行為は、僕にとってとても楽しいものでした。

 

就職活動で生まれたある疑問ー社会からの早すぎる要求ー

 

しかし就職活動も半年を過ぎた頃、僕の中で一つ疑問が生まれます。それは「あと半年も経たないうちに自分の人生の大きな一歩を踏み出さないとならないのか。その割に自分はあまりに社会について無知すぎはしないか」ということでした。

 

当時の僕にとって、世界はどんな仕組みで回っておりいるのか、また世界はこれからどこに向かおうとしているのか、なぜ社会にはこんなにも多くの企業があるのか、伸生き残ることのできる企業・淘汰されていく企業の違いとはなんなのだろうか・・・などの社会の仕組みを知らない状態で就職先を決めるというのはとても難しい話でした。それは例えるならば「地図がない状態で、とりあえず行き先を決めろ」と言われているような気分でした。

 

とはいえ社会はそんな個人の事情はお構い無しにそれを要求してきます。「まずは働きながら学ぶものだよ」という方もいましたが、地図のないまま航海に出ることは僕にとってあまりに無謀なように思えました。

 

休学を決め世界を眺めることにーとにかくやってみよう!ー

 

そして悩んだ挙句、一度大学を休学して、世界・社会に対する理解を深めることにしました。幸いにも寛大な両親は、特に反対することもなく、「あんたが決めたんならどうせ何言っても変わらないだろうから好きにしない」という態度でした。

 

とはいえ世界・社会に対する理解を深めるためにどのようにすれば良いのかは、正直検討も付いていませんでしたが、とりあえず日本の外に出てみることにしました。そしてできるだけ、日本とは文化や雰囲気の異なる所に行こう、と思いました

 

行き先はとりあえずジャマイカーそんなに深い意味はありませんー

 

それで選んだ国は「ジャマイカ」でした。「なぜジャマイカなのか」とよく聞かれるのですが、そこまで大した理由はありません。言うなれば先述した飲食店の店長がジャマイカが好きで、その文化などを教えてもらっていたり、「よくわからない国に行くより少しくらい知ってる国がいいだろう」というような理由です。

 

まあそれでジャマイカに行くことになるのですが、当時は1年間ずっと行くかぁ、なども考えていましたが、ビザの関係上3ヶ月が限度でしたので、とりあえず3ヶ月訪問することにしました。

 

そしてこのジャマイカについても書き出すとものすごい量になるのでここでは省きますが(またどこかで書きますね)、このジャマイカを訪れたことは、現在の僕の人生の大きな大きな転換期になりました。

 

少年の当たり前を木っ端微塵に破壊したジャマイカという楽園

 

まあどう転換したかを一言で言えば「当たり前が破壊された」って感じです。「どんな当たり前」かというと多くの分野においてです。歴史観、食事観、人生観、自然観、宇宙観、社会観・・・・もう木っ端微塵にやられましたね!

 

その証拠にジャマイカから帰国後に僕はビーガン(完全菜食主義)で、髭も髪も切らずに、農業を始め、ヒッピーのような格好で、自給自足のライフスタイルを模索し始めました!笑

 

さすがに寛大な両親も「あなたは何を目指してるの?」と疑問を抱いていましたが、当時の僕は「それは俺にもわからん」と答えるくらい、人生の迷走期に入っていました。

 

少年がジャマイカで受け取ったものー現代社会に対する強烈な危機感ー

 

まあ僕がジャマイカで受け取ったものを一言で言えば「現代社会に対する強烈な危機感」って奴ですかね。いままで対して世界や社会というものに目を向けたことのなかった少年の前にいきなり「現実」というものが襲い掛かってきたのです。それはジャマイカで見た「貧富の格差」もそうですし、それらを生み出している「資本主義」というシステムですし、さらにそこに生きている「人間」というものがありありと見えたのです。

 

そのことを見た私は「こんな社会は絶対に自分の子供に渡せない!」と強烈な危機感を覚え、帰国したのです。

 

とはいえ、そんな巨大なシステムを変革するなんて相当な話ですし、そもそもそこまで見ている大人も少なかったです。そのことを知っていたとしてもそれは無理である、と早々に諦めている人が大多数で、そこに抗おうとしている人たちも、彼らの手段ではその社会秩序の代案なるものには到底なりそうもありませんでした。

 

そんなもやもや時期にとにかく人に会ったり、とにかく本を読んだりしていました。毎週図書館の上限である20冊を借りていましたね。今思えばそれらの中身を当時の僕が理解していたとは思えませんが。笑

 

とにかく必死でした!

 

そんな時に出会った人生の恩師ーNoh Jesuとの出会いー

 

そんな時に今の人生を歩むきっかけとなった認識技術創始者である"Noh Jesu"の講演会に参加しました。

 

これも話すと長くなるので割愛しますが、その講演会を聞いて僕は「この人はもしかしたら僕が見ている以上の世界を見てるかもしれない」と感じ、直接話を聞き、「この人はおそらく知っている」と確信します。

 

そして彼から「この認識技術を使って、日本の若者が世界を救済して欲しい」と言われ、「この認識技術が本物なのであれば是非そうさせて欲しい」と思い、彼が行っている教育プログラムに参加しました。

 

認識技術を身を持って経験ーとにかく全てが圧倒的であったー

 

その認識技術は当時の僕が想像をはるかに上回ったものでした。そしてその認識技術によって僕は就職活動の時に得たいと思っていた「地図の全体像」を得て、「いま世界がどのような状態なのか」を理解し、「何をどのようにすれば自分がジャマイカの時に持っていた危機意識が解決するのか」の道が観えました。

 

そしてこの認識技術を活用すれば「誰もがこの地図」を得て、「誰もが主体性と創意性と尊厳性を持って生きることが可能」であると確信しました。

 

そしてついに僕は「自分が心から熱中できるもの」「自分の人生の使い道」を見つけたのです。

 

認識技術を学んでから今に至るまで

 

それからというもの、福岡で1000人規模のイベントを行ったり、東京でも数百人規模のイベントを行ったりしたのち、大学を卒業(一応卒業したんです。笑)。

 

その後福岡に移り、認識技術を学びながら、認識技術を広めるイベントや活動を行いながら、現在はその中で感じた問題意識もあり、このブログや「而立(じりつ)塾」というものを運営しながら、次世代を牽引できる20代を量産すべく活動しています。

 

いま時代は大きな転換期を迎えています。そんな時代に「過去」や「常識」は通用しません。だからこそ「自分たちの力」で未来を切り開いていかなければならないと思います。そしてそれは「既得権益を持っている大人」ではなく、「何も持っていない若者」から起こるしかないでしょう。

 

そんな「何も持っていない若者」が「自分の力で未来を切り開ける」ようになるためのサポートをこのブログと「而立(じりつ)塾」が担っていきたいと思っています。

 

終わりに

 

是非今の社会に問題意識を持っている方、未来に不安している方、もっとを力をつけたい方、共に学び、共に未来を創っていきましょう!未来は僕たちの手にかかっています!

 

ぜひこのブログや「而立(じりつ)塾」が皆さんの人生にとって微力ながらお力になれたらと思っています。どうぞ今後ともよろしくおねがします。